2015年04月14日

 P410 1行目


わたしがアトーンメントを受け入れることこそが、世界が救われる方法です。世界の救いは、わたしにかかっています。宇宙の救いも、わたし次第です。この観点が、心の外側に宇宙があると示しているのがおわかりでしょう。(邦訳)


If I accept the Atonement then that is how the world is saved. The salvation of the world depends on me. The salvation of the cosmos depends on me. You can see this viewpoint implies that there is cosmos outside my mind, and, when I accept the correction, that takes care of the cosmos.


試訳保留

(コメント)

この本全体の文脈からいっても、上記の段落につながる流れを見ていても、心の「内側」に宇宙がある、となるはずなのですが、原文もoutside(外側)となっています。わたしが読み切れていない、この段落特有の意味づけゆえに「外側」のままで正しいのか、それともたんにinside を誤って outside にしただけなのか、定かではありません。この件は保留にしておきたいと思います。


( 追記 H27. 12/4  )

ここは原文通り「心の外側」で正しいのではないかとのご指摘を、T様からメッセージでいただきました。ありがとうございます。


わたしがこのブログを作成した時点では、「心」に関する理解は、ワプニックさんの説明する『心には物理的/定量的な次元はありませんから、心は何らかの場所に存在するわけではありません。そうしたことは、私たちには考えもつかないことのように思 えますが、たいていの場合、確かにその通りで、私たちにはそのことを概念化することさえできません。心は一定の場所にあるのではありません。( http://www.jacim.com/acim/?p=6591 を参照のこと )』に近いものを念頭に置いていました。「内」や「外」という表現は、我々が住む2次元平面・3次元空間に特有の表現であり、そもそも形而上的な実在である「心」に、「内」や「外」という形而下的表現をあてがっても、それは比喩的な意味合いにとどまり、あえていうなら心には「内側」しかないのではないか、と考えていました。従って、デヴィッドさんが言う「心の外側」が何を意味しているのか、どうにも推し量りかねたという事情があり、保留としていました。


現時点で、この保留部分を確定させるにあたっては、同じ章の、その他の部分の論理展開、文章表現を参考にすることで(邦訳P418最後の行、P426の3行目から始まる段落)、上記の試訳保留にした当該部分も、「心の外側」として、原文のままで正しいと結論できるかと思います。


The ultimate realization is that if the entire cosmos or the entire world is just a projection from the mind, that cosmos is the effect of this mistaken cause – the belief that I am separate.(P418最後の行)


So we're back to that wrong-mind again. The ego – all of consciousness – is the split mind, the wrong mind, and as long as the guilt and fear are believed to be within, it's not seen that they are truly outside of you. You have to sink down below them into the mind and go beneath them to see that they are really outside instead of within. But as long as the mind believes that there is guilt and sadness inside, then it prefers to stay focused on the screen and believe that the cause of the guilt and pain is out there on the screen; the world remains a good distractive device, a way of avoiding looking within.(邦訳P426 3行目から始まる段落)



「心」及び「原因と結果」に関する形而上学的理解について、わたしは未だ正確な理解に至った確信がもてていません。形而上学の理解と体験的な理解が並行して進み、正しい理解に到れるよう、聖霊に祈り、導いてもらいたいと思います。



 P415 9行目

コースでは、二、三の異なる道を心に呼びかけています。(邦訳)


It calls to mind a few different passages in the Course.


そういわれて、コースのいくつかの文章が思い浮かびました。(試訳)

(コメント)

ここでの passages  は道ではなく、文章の一節のことでしょう。
It calls to mind はただの慣用句な気がします。


P428 11行目

交信で書き取られた言葉(邦訳)


all the channeled writings


チャネリングで書き取られた言葉(試訳)

(コメント)

「交信」よりも「チャネリング」のほうが、スピリチュアル業界では通りがよさそうです。


 P429 終わりから4行目


そのようなあらゆる調整、さまざまなマジックの試み、自己概念を築こうとする試みを見つめることは、成長して立派で健康な責任感のある大人になるための助けになります。(邦訳)


It is helpful to look at all the adjustments, the different attempts at magic and the attempts to build a self-concept, to become a mature, respected, healthy, responsible adult.


そのようなあらゆる調整、さまざまな魔術の試み、成長して立派で健康な責任感のある大人になるという、この自己概念を築こうとする試みなどを見つめることは助けになります。(試訳)


(コメント)

to become~ はattempts にかかります。 to become~ は to build a self-concept の言い換えです。


 P431 2 行目

それが考える者の心から離れた客観的な実在の誕生です。夢の形は、夢の世界の成すがままであり、原因であるととらえられています。ですから、さまざまなことが可能です。夢の形が、出来事やほかの物事の原因になり得るのです。殺人などを犯した犯人は、その行動自体が原因だととらえられます。心の遊びのほんの一部というふうには見なされません。「わたし」が制作責任者兼監督で、そういうふうに設定しているわけです。(邦訳)



 It is the birth of objective reality apart from the mind of the thinker. The dream figure seems to be at the mercy of the dream world. The dream figure also is seen as causative. So it can do things; it can be a cause of events on other things. Someone who seems to murder or whatever is seen as a causative agent that can act in and of itself. It is not seen as just part of a play in the mind, that I am the executive producer/director , and that I have set it up this way.


それが考える者の心から離れた客観的現実の誕生です。夢の中の人物は夢の世界で翻弄され、なされるがままです。夢の中の人物は物事の原因とみなされることもあります。何事かを成し得るということ、ほかの事柄に影響を与える出来事を引き起こせるということです。殺人でもなんでもいいのですが、何かを実行したかに見える誰かが、自律的に物事を引き起こせる要因とみなされます。自分が制作責任者兼監督として演出した心のなかの劇の一部だというふうには捉えません。(試訳)


(コメント)

objective reality =客観的現実。figure =人物、play = 劇、舞台。

ideas  leave  not their source = アイデアはその源を離れない、というのは、コースの重要概念のひとつです。わたしたちは、主客分離した世界に生きていて、自分は肉体で、外側に自律的存在(他者)がいて、それに脅かされるから防衛したり、外側をコントロールしたり、攻撃したりして普段暮らしています。自分と自分じゃないもの、自分の内側と外側、自分と他者、という分離の世界、つまり「客観的現実」を知覚して生きているからです。


しかし、すべては心が描いた夢だとしたら、心の外側に独立して存在し、心を脅かしてくるようなものはあり得ないということです。したがって、外側をコントロールするのではなく、心を見て、真の原因を見つけだし、そこに聖霊の訂正を注ぎこみ、そうすれば奇跡を通じて、真の原因にアプローチできた「証し」が見せてもらえる、ということです。


 P 431 10行目と11行目の間

この10行目と11行目の間には、原文では、T-21.II.10-11の引用があります。

これよりもう少し後から、テキストやワークの引用が増えてくるのですが、同時に邦訳ではかなりの割愛、省略が見られます。確かに、原文を読んでいても、引用ばかりだと読む気は失せるのですが、このデヴィッドさんの本に関しては、丁寧に勉強する方のために、割愛した引用部分の位置を特定できる情報があってもいいので、ここに掲載します。


 P432 4行目

現実は、あなたが受け入れるものであって(邦訳)

実在は、あなたが受け入れるものであって(試訳)

(コメント)

ここでは、Reality と大文字になっています。すぐ後にくる「まずはじめに現実は自分で選ぶものだ」というところでの「現実」はそのままで通じます。


 P432 後ろから3行目

現実に投資します(邦訳)

現実を作り出します(試訳)

(コメント)

原文は、投資(invest)ではなく、発明する(invent)になっていました。


 P439 2行目と3行目の間

「 脱訳 」



This was a journey or a Guidance that I really had to follow; I really wanted to follow. All along, even through the college years of trying to put something together and make a career out of something, I felt this Call to I didn't know what. But along with it was “I have to go. I have to go with this Guidance even though I don't have a clear picture. I can't know what it will look like.”

I think of some of the stories of the different saints and so called wise people; I think of Meher Baba who went into silence, complete silence. And there was such a light in his eyes and such an attraction, such a strong draw that people would come to sit in his presence. And finally they got him a spelling board. He would point letter by letter and his teachings came through that. But in conventional thinking it's like, Come on, what is this? Everyone talks. What you do think God gave people mouths for?



これが私がほんとうにたどって行かなければならなかった旅、あるいは導きだったのです。どうにかして何かをモノにしよう、キャリアにつながるものを見出そうとしていた大学生の頃ですらずっと、私はこの何だかわからないものへのいざないを感じてはいたのです。けれど、それをたぐりよせると、「行かねば、この導きとともに、はっきりとは展望がないけれども、行かねば。それでどうなるのか分かりようがないけれど」となってしまいました。

様々な聖人、いわゆる賢者たちの話をいくつか思い出しました。静寂へと向かい、完全な沈黙を貫いたメヘル・バーバーのことを考えていました。彼の目には光が宿り、魅力的で、強く引き込まれるような力があったので、人々は彼のもとにやってくるようになったのです。そしてとうとう、やってきた人々はバーバーに文字板を渡して、彼に一文字一文字指さしてもらい、それで教えを授かれるようになったのです。でも普通に考えたら、おいおい何だよこれは、誰だってしゃべれるだろ、となります。なんのために神さまは人間に口を与えたと思っているんだ、って。



(コメント)

特にこの脱訳部分がなくても困らないような内容なので、割愛されたのかもしれませんが、一応、訳出しておきます。


 P447 3行目

「身体の過去のすべて」というとき、文字通り、わたしたちは過去の過去、未来の過去、つまり未来、知覚のすべてについて話しています。(邦訳)


And literally when it says “all the body's past” we are talking about the past-past and the future-past, meaning future, all of the perception.


「身体の過去のすべて」というとき、文字通り、わたしたちは過去という過去、未来という過去(つまり未来のことですが)、それらすべての知覚について話しています。(試訳)


追記:(コメント)

訳としては問題ないです。「過去の過去、未来の過去」という表現について解説します。幻想の世界、知覚世界のシナリオは、分離が起こったかに見えた時、すべてのシナリオが発生し、即座に聖霊によって訂正が完了した、とコースにはあります。この分離が起こったことじたいをまず「過去(A)」とします。ワーク第7番にある「I see only the past (わたしは過去だけを見ています)」というのはこの過去(A)のことです。その分離によって生じたシナリオのなかに、過去・現在・未来へ続く直線的な時間意識が含まれます。同じ「過去」という言葉を使っているせいでわかりにくいのです。過去(A)のなかに、直線的な時間意識としての過去・現在・未来が含まれているということです。このような背景ゆえに、邦訳のように「過去の過去、未来の過去、つまり未来」という表現が生じてきているのです。「過去という過去(A)、未来という過去(A)、つまり未来」とでもいったらいいでしょうか。



 P456 7行目

常にあった意識へと戻るということですね。(邦訳)


It's a return to awareness of what's always been the case.


常にずっとそうだったという気づきに戻ってくるということですね。(試訳)

(コメント)

邦訳は直訳として正しいですが、すこしわかりにくいので試訳のように手を加えました。


  P466~ 5行目

友人1)最終的に、自分でハンドルを握っているんですよね。
デイヴィッド)物事が作られて作用しているのと同じ方法で、見えているハンドルですね。


Friend 1: At least I have a handle on it.
David: A seeming handle in the way that things are constructed and the way things work.


友人1)少なくとも、自分でハンドルは握ってますよね。
   (→自分でわかってる、管理できている、の意)
デイヴィッド)物事が組み立てられて、うまく動いていくかにみえるハンドルですね。

(コメント)

おそらく、least をlast と誤認。また、seeming をseeingと誤認。ここでは、実際は物事を動かしていくために機能していないが、あたかもそれができてるかに見える、見せかけのハンドル(取っ手)、という意味合いだと思います。



 P476 終わりから2行目

しかし、それらが分裂した生活の断片だと信じる心にとっては、心には本当の経験があって、心はそれ自体で存在していることになります。だからこそ、過ちは過ちなのだということを思い出すために、心は奇跡を必要とするのです。(邦訳)


 But to the mind that believes that they are separate aspects that have a true experience and existence in and of themselves, then the mind needs miracles just to remind it that the false is false.


頸がん検査や食べ物やセックスがそれぞれ別個のものとして、実際に経験できるし、ほんとに存在しているものだと信じている心にとっては、過ちは過ちなのだということを思い出すために奇跡が必要なのです。

(コメント)

本当の経験があって、それじたいで存在しているのは、ここでは、心ではなく、分裂した生活の断片をさしています。ここで心は単数なので、they が受けることができません。


  P 477 10行目


その否定がどこへむかっているかを追ってみると、この世界が幻覚であることに気づくでしょう。本当にそれを幻覚として捉えるには、同時に自発的に、実在へ飛び込まなくてはなりません。世界を良い例えとして考えるのではなく、ただの幻覚としてとらえるには、見えるがままに世界をとらえて、自分で何かを試みることをきっぱりやめないといけません。なぜなら、自分でするなど不可能だからです。自分にはできない、そうすることは自分の役割ではない、とわからなければなりません。(邦訳)


If you really follow where this is going, you see that this world is a hallucination. And to really see it as a  hallucination you must simultaneously, spontaneously spring into Reality. To just see the world in that way, as a hallucination, and not think of it as a good metaphor, but just to see it for what it was, certainly with that kind of an experience, the attempting to do anything on one's own vanishes, because it seems to be impossible. It is seen that I cannot act on my own, for that was not me.


このこと(キリストは否定され得ない)の導く先をほんとうにたどってみると、この世界が幻覚なのだとわかるでしょう。ほんとうにそうだとわかったら、それと同時かつ自動的にあなたは実在世界に飛び込んでしまうにちがいありません。ただ世界をそのように、つまり幻覚として見れたら、これはうまい比喩としてそう考えろというのではなく、実際にそう(幻覚)だったのだとわかるなら、その経験ゆえに必ず、自分の意志で何かしようと試みる気などすっかり失せてしまいます。なぜならそんなこと不可能だと思えるからです。私は自分個人の意志で行動なんてできないのだ、ということが見抜かれます。それがそもそも自分ではなかったとわかるからです。(試訳)


(コメント)

分離した個から目覚める瞬間について描写された、深遠な一節です。


 P485 終わりから4行目

あらゆる人間関係は、相互依存を伴うからです。(邦訳)


all of its’ relationships involve reciprocity.


あらゆる人間関係は、交換取引を伴うからです。

(コメント)

reciprocityの訳ですが、「相互依存」は確かに間違いではないのですが、コースのなかで reciprocity という言葉がでてくるときは、自分が与えたものに対して、代わりに何かを要求する、その交換取引性に焦点を当てています。この後に続く文脈でも、相互依存より、交換取引のほうが、文脈に馴染むと思います。


 P493 3行目


それが起きなかったとは言えないと言った女性がいらっしゃいましたが、その件を形而上学的にたどると、確かにそれは起きていなかったというところへ行き着きます。馬鹿馬鹿しいのは、それがあなたにとって実在になってしまうということです。過去はなくなり、それは決して起きていないのです。


The woman was saying that you can't say that it didn't happen. If you follow this metaphysically that is precisely what you come to, that it didn't happen. The very thing that seemed absurd is what you end up with as being reality. The past is gone and never happened.


虐待が起こってなかったなんて言えないはずよとその女性はおっしゃっていました。形而上学的にこのことを追跡していくと、必ず、起こっていなかったという結論にたどりついてしまうのです。荒唐無稽だと思えたまさにその結論が、事実であるとして行き着く所なのです。過去は過ぎ去り、決して起こっていなかったと。


(コメント)

馬鹿馬鹿しいのは~の一文は、ニュアンスが原文からずれています。



 P493 最後から5行目


欺かれた心の中では、原因や結果が実在するものとして信じられていて、それらが原因になると思い込まれています。していて、それらが本当に原因になり得ると信じられています。しかし、だからと言ってそれが真実にはなりません。まるで永遠の英知のように、原因や結果を意識から隠すことはできますが、それらの真の姿を隠すことはできません。(邦訳)


In the deceived mind the cause is believed to be real and the effects are believed to be real and causative in themselves. But that doesn't make them true; because the mind's belief in them doesn't make them true. It's like eternal Knowledge. It can be kept from awareness but that doesn't keep It from being what It Is.


欺かれた心の中では、原因は実在するものとして信じられます。結果も実在するものと信じられ、結果がそれじたいでまた別の原因になると信じられています。しかし、それで真実になるわけではありません。心がそれらを信じたからといって真実になるわけではないからです。永遠の智識のようなものです。智識を意識にのぼらせないようにはできても、智識が智識であることじたいを妨げるわけではないのです。(試訳)


(コメント)

邦訳には、訳のダブリと脱訳、It のとらえ違い(原因や結果を受けるなら、直前の文と同様、they)があります。永遠の智識~では始まるセンテンスと、その直前までのセンテンスとの論理的つながりがいまいちすっきりしませんが。偽りの原因と結果を信じ込んだところで、永遠の智識、つまり真理を覆い隠しはできても、真理でなくすることはできない、という話でしょうか。



 P498 7行目


イエスは、「身体は奇跡によって癒やされる」という形而上学的レベルへ落としこんでいます。


So he is dropping down a metaphorical level to, “thus is the body healed by miracles.”


イエスは、「身体は奇跡によって癒やされる」という比喩的なレベルへと落としこんでいます。

(コメント)

metaphorical をmetaphysical と見誤り。



 P498 後ろから4行目

・・・ものとしてとらえられます。ここ以下に(脱訳)あり。


The body is seen as causeless and not a real effect.
It is perceived to be outside the mind instead of containing the mind.(←脱訳部)


身体が心を格納しているのではなく、心の外側にあると知覚されます。

(コメント)

ワンセンテンスだけ抜けてました。


 P501 9行目

たとえば、瞑想だったり(邦訳)


This could seem to play out as taking medication or getting up and leaving.


例えば、薬を飲むことだったり(試訳)


(コメント)

medication が meditation ととらえ違い。確かに一文字しか違わない(笑)。
奇跡を恐れるあまり「瞑想」したら、そのまま奇跡が貫徹しそうに思って、文脈的に違和感感じて誤訳に気付きました(笑)。


 P507 終わりから6行目

今という瞬間しかないのにです。<脱訳 >。身体という観点で病気について・・・

(コメント)

<脱訳>部分に、W-pI.136.1. の引用が原文にはありました。



 P509 10行目

場面が周辺的なものだなんて、見たことないですよね。(邦訳)


it's kind of unseen when it's that peripheral.


そんなふうに周辺的になると、もう見えてないようなものですね。(試訳)



 P510 4行目

ですから、根本的な形而上学では判断を信じたくないのです。それは過ちを生むだけだからです。考える者の心の中でそれは世界を作り出します。(邦訳)


And that is the underlying metaphysics of why you don't want to buy into a judgment, because it makes the error real. It makes the world real in the mind of the thinker.

それが、どうして判断をしてしまいたくないかの、陰に隠れた形而上学的仕組みです。なぜならそうすることは過ちをリアルなものとしてしまう、考える者の心の中で世界をリアルなものにしてしまうからです。





evolievoli at 23:08│A