2015年04月16日

はじめまして。
ここ数年、デヴィッドさんの著書や動画にお世話になりながら、奇跡講座を実践してきた者です。一応、蘭丸、と自己紹介しておきます。


今回出版された邦訳を読んで、気になる誤訳があったのでリストアップして、訳の訂正をしてみました。わたしは英語は読んだり聞いたりしても、日本語として表現する翻訳には非常に苦痛を感じる人間なので、普通はこんな作業はやらないのですが、今回はなぜか背中を押されるように取り組んでしまいました。いわゆる聖霊の後押しというやつなのでしょうか。



誤訳の深刻度を絵文字で表現してみました。

         

一番深刻なものは、コースの基本概念を完全に覆してしまうような誤訳か、論旨が原文の逆になっているようなケースで で示しました。通常の誤訳は、 このひとが出てきます。


このブログにリストアップした誤訳訂正についてご質問があれば、出来る限りでお答えします。左のメッセージフォームをご利用ください。ただ、コースの一般的内容に関する質問や相談は受けかねます。あくまでこのブログの誤訳例のみに限定してお願いします。間違いの指摘も歓迎しています。


誤訳訂正については、現時点で打ち止めのつもりです。新たに気になる誤訳が見つかった場合は、この欄で追加報告いたします。


デヴィッドさんのコース解説を通じて、より深くコースにコミットする方が増えることをお祈りしています。


(質問等受付終了のお知らせ)2016.4.27

「覚醒へのレッスン」出版のほぼ1ヶ月後にこのブログを立ち上げてから、1年ほど経過しました。このへんで、ブログ左上に設置していたメッセージ欄の取り外しをもって、質問受付は終了したいと思います。読んでくださったみなさま、ありがとうございました。



(追記報告)

・わたしは、自分にとっていちばん益になることを見ていません P53~ の中の、P74 4行目に「追記」を加えました。

・ⅳ)原因と結果の逆転 P400~ の中の、P447 3行目に「追記」を加えました。


・ⅱ)真の関係を経験することに心を開く における、P355  5行目 及び P356 9行目において訂正を追加しました。(なおこの訂正は、このブログの読者F・T 様からご指摘いただきました。誤訳訂正のご協力に感謝いたします。)7/19 追記訂正


・原因と結果の逆転 P410 1行目、T様からご指摘いただいた点につき、追記を加えました。ご協力ありがとうございました。 12/2   追記訂正


・P85の6行目 12/26   最新追記訂正

 「正気の中では、あてになるものなど何もありません。」 (邦訳)
   ↓ 
  Nothing in madness is dependable.
   ↓
 「狂気の中では、・・・・             」 (訂正訳)   

 madness という単語について、正反対の意味の訳があてがわれています。
 これはT様よりご指摘いただきました。ご協力ありがとうございます。


 なお、この誤訳訂正ブログを作成した当時、コース本体からの引用部分につき、
    わたしはノーチェックだったと思います。
 引用箇所が明示されているので、お手持ちの公認訳や大内訳などを参照して
 いただければ確認可能だと考えていたのかもしれません。
 今回、T様にご指摘いただいた通り、コース本体からの引用についても、
 誤訳が存在している可能性が判明したため、コース本体からの引用部分につき、
 意味が通らないと思われる際は、公認訳で確認されることを読者の皆様には
 お勧め致します。


evolievoli at 02:09│A 

2015年04月15日

 気になった用語について


 目撃

今回の邦訳で、かなり頻繁に出てきた「目撃する」「目撃者」という言葉、主に、witness という単語と、see という単語にあてられた訳語でした。たしかにwitnessには目撃するという意味もありますが、コースのなかでwitnessの訳語をすべて「目撃」で押し通してしまうと、意味が通じなくなることがあります。


この witness という言葉は、加藤・澤井訳では、「証人」「証しする」という訳語が当てられています。「証しする」という言葉は、聖書にもよく出てくる言葉で、イエス様のお話のなかで、witnessという言葉が出てくれば、「証しする」というのが定訳のようです。加藤・澤井訳は、この聖書の言葉使いをまず踏まえておられると思います。


今邦訳のなかでも、心の訂正により、それを反映するかのような事象に遭遇する、というお話があったと思います。訂正が起こったことの証拠(証し)、証人として、他人のある言動や態度に遭遇したりするということです。Aが起こったからBが生じた。したがって、BがあることはAが起こったことを推定させる。この場合、Bは証拠、証人となります。そして、この証拠(証し)や証人を知覚するとき、自らの心に訂正が起こったことを確信する、ということになります。(証しじたいが目的ではなく、心の訂正とその確信を積み重ねて、最終的に知覚じたいから卒業することが目標です。証しの知覚じたいはいまだ幻想に属するからです)。


「目撃する」「目撃者」という言葉を香咲さんが使われる時、この証拠・証人じたいと、この証拠・証人を知覚すること、この両方のニュアンスの違いをあまり区別せずに使われていた印象です。読者の方が目撃という言葉を読んで、少し違和感があるときは、証人や証しする、という言葉に置き換えるとスムーズなときがあると思います。文脈によっては、目撃という訳語があきらかに誤訳のケースもあって、「贖罪の受容を証しする」というような、贖罪を体現した人として、その証拠、証人となって生きる、といった状況で、「目撃する」という訳語をあてると誤訳になってしまいます。高頻度に使われていた言葉なので、すべてをフォローしてここに列挙することはしませんが、読者の方は留意していただければと思います。



 ステートメント

この言葉もかなり高頻度で今回の邦訳に出てきましたが、まだ日本語としてはこなれた言葉ではないと思います。また、文脈によって訳し分ける必要のある言葉でもあるので、一律にステートメントとあると「?」と思われた方も多いのではないでしょうか。実際、この言葉を日本語にしようとすると、若干、躊躇うのです。辞書を引いいてそのままあてがうと、表明とか声明とかでしょうか。実際には、「言葉」、「文章」、「表現」、「主張」ぐらいの訳語をあてておけば、ざっくりとは意味は通ります。


 アトーンメント、サンシップ

どちらも日本語としては全く馴染んでいない言葉ですが、利用しているテキストの言葉に置き換えれば意味としては通ると思います。私も読んでいて、当初やはり拒否反応がでましたが(笑)。


evolievoli at 23:15│A 
P512 5行目

身体が見るものは、信じている信念だけです。(邦訳)


The body as the perceiver is only a belief.


知覚者としての身体はただの信念です。≒身体の五官が見たり聞いたりと知覚するというのは、ただの信念にすぎません。(試訳)

(コメント)

主語は「身体」で、述語は「信念」です。「身体は信念」、これを基盤に意訳は可能ですが、邦訳が基盤にしたのは、「知覚が信念」で、これは原文の構造からは出てこない訳です。この構文を翻訳者の方がとらえ損なったとは考えづらい。
直前に「心が知覚します」と訳されているにもかかわらず、「身体が知覚してない」と受け入れるのは不自然に感じられて、翻訳が歪んでしまったのかもしれません。そういう意味では確かに「知覚が信念」だったかもしれませんね(笑)。


 P512 最後から6行目

でも、ゆるすのはこの世界ではありません。この世界では、誰かが害を及ぼす行いをしたと思われたときに、ゆるしがあります。


But it is not the forgiveness of this world, in which someone is seen as doing a harmful act and then forgiven.
 

でも、誰かがひどいことをしてそれを見咎められて、そしてゆるされる、いわゆる世間でいう「ゆるし」ではありません。


(コメント)

世界から目覚める方法としてのゆるしと、この世界で一般的にいわれるゆるしとを区別している文章です。邦訳だと、P513の2行目から「幸せになるためには、この世界のすべてをゆるさなければなりません。」という文章がでてきて、いきなり矛盾してしまいます。


 P514 5行目

そのふじゅうぶんな意識が続いている理由は、投影のせいです。(邦訳)


The reason this lack of awareness continues is because of projection.


こうして気付きづらくなってしまった状態が続くわけは、投影があるからです。

(コメント)

直前で、分離のアイデアやホーリースピリットが抑圧されて、意識に登ってきづらくなったことを、 this lack of awareness と呼んでいます。



 P515 図

このページの中央に、「願望」とあります。desire の訳なのですが、これはいわば重要概念として使われている言葉です。神の祭壇に、分離の想いが置かれてしまったことを、desire と呼んでいるからです。したがって、desireの訳も統一されるべきなのですが、本書では、願望、欲求、願い、欲望と、その都度、バラバラに訳されてしまっています。読者は注意が必要です。これは、分離の願い(desire)という名の祈りなのです。祈りは必ず聞き届けられてしまいます。願いと祈りが同一のものとして扱われているのは、下の訂正訳にも出てきます。


 P518 5行目

 
祈りや願いが分裂すると、純粋さが失われます。分裂した時点で、残りの祈りはすべて散ってしまいます。


When prayer or desire becomes split, purity is lost. From the split prayer all the rest spreads out.


祈り、つまり願いが分離になると、純粋さは失われます。分離の祈りから、残りのすべてが散らばってひろがります。


(コメント)

直後に、信念がエゴとなり・・・と続いていくのは、「散らばってしまったこと」の具体例です。
邦訳のように、祈りじたいがちらばるのではなく、分離という祈りを起点として、分離の諸相が展開された(かにみえる)、ということです。



 割愛について

心の五つのレベルに関するコースからの引用、という節では、原文では大量にコースのテキストやワークから引用があります。邦訳では紙幅の関係からか、かなり多く省略、割愛されていることを付記しておきます。

原文でテキストが大量に引用されていると、なんとなく読み飛ばしてしまいがちなのですが(苦笑)、一応、テーマに沿ってテキストやワークから引用されているので、丁寧に学びたい方は原書をお求めのうえで、該当箇所を参照なさってください。もちろん、テキストやワークを普段から丁寧に学んでいれば十分だとは思います。


evolievoli at 23:14│A 

2015年04月14日

 P410 1行目


わたしがアトーンメントを受け入れることこそが、世界が救われる方法です。世界の救いは、わたしにかかっています。宇宙の救いも、わたし次第です。この観点が、心の外側に宇宙があると示しているのがおわかりでしょう。(邦訳)


If I accept the Atonement then that is how the world is saved. The salvation of the world depends on me. The salvation of the cosmos depends on me. You can see this viewpoint implies that there is cosmos outside my mind, and, when I accept the correction, that takes care of the cosmos.


試訳保留

(コメント)

この本全体の文脈からいっても、上記の段落につながる流れを見ていても、心の「内側」に宇宙がある、となるはずなのですが、原文もoutside(外側)となっています。わたしが読み切れていない、この段落特有の意味づけゆえに「外側」のままで正しいのか、それともたんにinside を誤って outside にしただけなのか、定かではありません。この件は保留にしておきたいと思います。


( 追記 H27. 12/4  )

ここは原文通り「心の外側」で正しいのではないかとのご指摘を、T様からメッセージでいただきました。ありがとうございます。


わたしがこのブログを作成した時点では、「心」に関する理解は、ワプニックさんの説明する『心には物理的/定量的な次元はありませんから、心は何らかの場所に存在するわけではありません。そうしたことは、私たちには考えもつかないことのように思 えますが、たいていの場合、確かにその通りで、私たちにはそのことを概念化することさえできません。心は一定の場所にあるのではありません。( http://www.jacim.com/acim/?p=6591 を参照のこと )』に近いものを念頭に置いていました。「内」や「外」という表現は、我々が住む2次元平面・3次元空間に特有の表現であり、そもそも形而上的な実在である「心」に、「内」や「外」という形而下的表現をあてがっても、それは比喩的な意味合いにとどまり、あえていうなら心には「内側」しかないのではないか、と考えていました。従って、デヴィッドさんが言う「心の外側」が何を意味しているのか、どうにも推し量りかねたという事情があり、保留としていました。


現時点で、この保留部分を確定させるにあたっては、同じ章の、その他の部分の論理展開、文章表現を参考にすることで(邦訳P418最後の行、P426の3行目から始まる段落)、上記の試訳保留にした当該部分も、「心の外側」として、原文のままで正しいと結論できるかと思います。


The ultimate realization is that if the entire cosmos or the entire world is just a projection from the mind, that cosmos is the effect of this mistaken cause – the belief that I am separate.(P418最後の行)


So we're back to that wrong-mind again. The ego – all of consciousness – is the split mind, the wrong mind, and as long as the guilt and fear are believed to be within, it's not seen that they are truly outside of you. You have to sink down below them into the mind and go beneath them to see that they are really outside instead of within. But as long as the mind believes that there is guilt and sadness inside, then it prefers to stay focused on the screen and believe that the cause of the guilt and pain is out there on the screen; the world remains a good distractive device, a way of avoiding looking within.(邦訳P426 3行目から始まる段落)



「心」及び「原因と結果」に関する形而上学的理解について、わたしは未だ正確な理解に至った確信がもてていません。形而上学の理解と体験的な理解が並行して進み、正しい理解に到れるよう、聖霊に祈り、導いてもらいたいと思います。



 P415 9行目

コースでは、二、三の異なる道を心に呼びかけています。(邦訳)


It calls to mind a few different passages in the Course.


そういわれて、コースのいくつかの文章が思い浮かびました。(試訳)

(コメント)

ここでの passages  は道ではなく、文章の一節のことでしょう。
It calls to mind はただの慣用句な気がします。


P428 11行目

交信で書き取られた言葉(邦訳)


all the channeled writings


チャネリングで書き取られた言葉(試訳)

(コメント)

「交信」よりも「チャネリング」のほうが、スピリチュアル業界では通りがよさそうです。


 P429 終わりから4行目


そのようなあらゆる調整、さまざまなマジックの試み、自己概念を築こうとする試みを見つめることは、成長して立派で健康な責任感のある大人になるための助けになります。(邦訳)


It is helpful to look at all the adjustments, the different attempts at magic and the attempts to build a self-concept, to become a mature, respected, healthy, responsible adult.


そのようなあらゆる調整、さまざまな魔術の試み、成長して立派で健康な責任感のある大人になるという、この自己概念を築こうとする試みなどを見つめることは助けになります。(試訳)


(コメント)

to become~ はattempts にかかります。 to become~ は to build a self-concept の言い換えです。


 P431 2 行目

それが考える者の心から離れた客観的な実在の誕生です。夢の形は、夢の世界の成すがままであり、原因であるととらえられています。ですから、さまざまなことが可能です。夢の形が、出来事やほかの物事の原因になり得るのです。殺人などを犯した犯人は、その行動自体が原因だととらえられます。心の遊びのほんの一部というふうには見なされません。「わたし」が制作責任者兼監督で、そういうふうに設定しているわけです。(邦訳)



 It is the birth of objective reality apart from the mind of the thinker. The dream figure seems to be at the mercy of the dream world. The dream figure also is seen as causative. So it can do things; it can be a cause of events on other things. Someone who seems to murder or whatever is seen as a causative agent that can act in and of itself. It is not seen as just part of a play in the mind, that I am the executive producer/director , and that I have set it up this way.


それが考える者の心から離れた客観的現実の誕生です。夢の中の人物は夢の世界で翻弄され、なされるがままです。夢の中の人物は物事の原因とみなされることもあります。何事かを成し得るということ、ほかの事柄に影響を与える出来事を引き起こせるということです。殺人でもなんでもいいのですが、何かを実行したかに見える誰かが、自律的に物事を引き起こせる要因とみなされます。自分が制作責任者兼監督として演出した心のなかの劇の一部だというふうには捉えません。(試訳)


(コメント)

objective reality =客観的現実。figure =人物、play = 劇、舞台。

ideas  leave  not their source = アイデアはその源を離れない、というのは、コースの重要概念のひとつです。わたしたちは、主客分離した世界に生きていて、自分は肉体で、外側に自律的存在(他者)がいて、それに脅かされるから防衛したり、外側をコントロールしたり、攻撃したりして普段暮らしています。自分と自分じゃないもの、自分の内側と外側、自分と他者、という分離の世界、つまり「客観的現実」を知覚して生きているからです。


しかし、すべては心が描いた夢だとしたら、心の外側に独立して存在し、心を脅かしてくるようなものはあり得ないということです。したがって、外側をコントロールするのではなく、心を見て、真の原因を見つけだし、そこに聖霊の訂正を注ぎこみ、そうすれば奇跡を通じて、真の原因にアプローチできた「証し」が見せてもらえる、ということです。


 P 431 10行目と11行目の間

この10行目と11行目の間には、原文では、T-21.II.10-11の引用があります。

これよりもう少し後から、テキストやワークの引用が増えてくるのですが、同時に邦訳ではかなりの割愛、省略が見られます。確かに、原文を読んでいても、引用ばかりだと読む気は失せるのですが、このデヴィッドさんの本に関しては、丁寧に勉強する方のために、割愛した引用部分の位置を特定できる情報があってもいいので、ここに掲載します。


 P432 4行目

現実は、あなたが受け入れるものであって(邦訳)

実在は、あなたが受け入れるものであって(試訳)

(コメント)

ここでは、Reality と大文字になっています。すぐ後にくる「まずはじめに現実は自分で選ぶものだ」というところでの「現実」はそのままで通じます。


 P432 後ろから3行目

現実に投資します(邦訳)

現実を作り出します(試訳)

(コメント)

原文は、投資(invest)ではなく、発明する(invent)になっていました。


 P439 2行目と3行目の間

「 脱訳 」



This was a journey or a Guidance that I really had to follow; I really wanted to follow. All along, even through the college years of trying to put something together and make a career out of something, I felt this Call to I didn't know what. But along with it was “I have to go. I have to go with this Guidance even though I don't have a clear picture. I can't know what it will look like.”

I think of some of the stories of the different saints and so called wise people; I think of Meher Baba who went into silence, complete silence. And there was such a light in his eyes and such an attraction, such a strong draw that people would come to sit in his presence. And finally they got him a spelling board. He would point letter by letter and his teachings came through that. But in conventional thinking it's like, Come on, what is this? Everyone talks. What you do think God gave people mouths for?



これが私がほんとうにたどって行かなければならなかった旅、あるいは導きだったのです。どうにかして何かをモノにしよう、キャリアにつながるものを見出そうとしていた大学生の頃ですらずっと、私はこの何だかわからないものへのいざないを感じてはいたのです。けれど、それをたぐりよせると、「行かねば、この導きとともに、はっきりとは展望がないけれども、行かねば。それでどうなるのか分かりようがないけれど」となってしまいました。

様々な聖人、いわゆる賢者たちの話をいくつか思い出しました。静寂へと向かい、完全な沈黙を貫いたメヘル・バーバーのことを考えていました。彼の目には光が宿り、魅力的で、強く引き込まれるような力があったので、人々は彼のもとにやってくるようになったのです。そしてとうとう、やってきた人々はバーバーに文字板を渡して、彼に一文字一文字指さしてもらい、それで教えを授かれるようになったのです。でも普通に考えたら、おいおい何だよこれは、誰だってしゃべれるだろ、となります。なんのために神さまは人間に口を与えたと思っているんだ、って。



(コメント)

特にこの脱訳部分がなくても困らないような内容なので、割愛されたのかもしれませんが、一応、訳出しておきます。


 P447 3行目

「身体の過去のすべて」というとき、文字通り、わたしたちは過去の過去、未来の過去、つまり未来、知覚のすべてについて話しています。(邦訳)


And literally when it says “all the body's past” we are talking about the past-past and the future-past, meaning future, all of the perception.


「身体の過去のすべて」というとき、文字通り、わたしたちは過去という過去、未来という過去(つまり未来のことですが)、それらすべての知覚について話しています。(試訳)


追記:(コメント)

訳としては問題ないです。「過去の過去、未来の過去」という表現について解説します。幻想の世界、知覚世界のシナリオは、分離が起こったかに見えた時、すべてのシナリオが発生し、即座に聖霊によって訂正が完了した、とコースにはあります。この分離が起こったことじたいをまず「過去(A)」とします。ワーク第7番にある「I see only the past (わたしは過去だけを見ています)」というのはこの過去(A)のことです。その分離によって生じたシナリオのなかに、過去・現在・未来へ続く直線的な時間意識が含まれます。同じ「過去」という言葉を使っているせいでわかりにくいのです。過去(A)のなかに、直線的な時間意識としての過去・現在・未来が含まれているということです。このような背景ゆえに、邦訳のように「過去の過去、未来の過去、つまり未来」という表現が生じてきているのです。「過去という過去(A)、未来という過去(A)、つまり未来」とでもいったらいいでしょうか。



 P456 7行目

常にあった意識へと戻るということですね。(邦訳)


It's a return to awareness of what's always been the case.


常にずっとそうだったという気づきに戻ってくるということですね。(試訳)

(コメント)

邦訳は直訳として正しいですが、すこしわかりにくいので試訳のように手を加えました。


  P466~ 5行目

友人1)最終的に、自分でハンドルを握っているんですよね。
デイヴィッド)物事が作られて作用しているのと同じ方法で、見えているハンドルですね。


Friend 1: At least I have a handle on it.
David: A seeming handle in the way that things are constructed and the way things work.


友人1)少なくとも、自分でハンドルは握ってますよね。
   (→自分でわかってる、管理できている、の意)
デイヴィッド)物事が組み立てられて、うまく動いていくかにみえるハンドルですね。

(コメント)

おそらく、least をlast と誤認。また、seeming をseeingと誤認。ここでは、実際は物事を動かしていくために機能していないが、あたかもそれができてるかに見える、見せかけのハンドル(取っ手)、という意味合いだと思います。



 P476 終わりから2行目

しかし、それらが分裂した生活の断片だと信じる心にとっては、心には本当の経験があって、心はそれ自体で存在していることになります。だからこそ、過ちは過ちなのだということを思い出すために、心は奇跡を必要とするのです。(邦訳)


 But to the mind that believes that they are separate aspects that have a true experience and existence in and of themselves, then the mind needs miracles just to remind it that the false is false.


頸がん検査や食べ物やセックスがそれぞれ別個のものとして、実際に経験できるし、ほんとに存在しているものだと信じている心にとっては、過ちは過ちなのだということを思い出すために奇跡が必要なのです。

(コメント)

本当の経験があって、それじたいで存在しているのは、ここでは、心ではなく、分裂した生活の断片をさしています。ここで心は単数なので、they が受けることができません。


  P 477 10行目


その否定がどこへむかっているかを追ってみると、この世界が幻覚であることに気づくでしょう。本当にそれを幻覚として捉えるには、同時に自発的に、実在へ飛び込まなくてはなりません。世界を良い例えとして考えるのではなく、ただの幻覚としてとらえるには、見えるがままに世界をとらえて、自分で何かを試みることをきっぱりやめないといけません。なぜなら、自分でするなど不可能だからです。自分にはできない、そうすることは自分の役割ではない、とわからなければなりません。(邦訳)


If you really follow where this is going, you see that this world is a hallucination. And to really see it as a  hallucination you must simultaneously, spontaneously spring into Reality. To just see the world in that way, as a hallucination, and not think of it as a good metaphor, but just to see it for what it was, certainly with that kind of an experience, the attempting to do anything on one's own vanishes, because it seems to be impossible. It is seen that I cannot act on my own, for that was not me.


このこと(キリストは否定され得ない)の導く先をほんとうにたどってみると、この世界が幻覚なのだとわかるでしょう。ほんとうにそうだとわかったら、それと同時かつ自動的にあなたは実在世界に飛び込んでしまうにちがいありません。ただ世界をそのように、つまり幻覚として見れたら、これはうまい比喩としてそう考えろというのではなく、実際にそう(幻覚)だったのだとわかるなら、その経験ゆえに必ず、自分の意志で何かしようと試みる気などすっかり失せてしまいます。なぜならそんなこと不可能だと思えるからです。私は自分個人の意志で行動なんてできないのだ、ということが見抜かれます。それがそもそも自分ではなかったとわかるからです。(試訳)


(コメント)

分離した個から目覚める瞬間について描写された、深遠な一節です。


 P485 終わりから4行目

あらゆる人間関係は、相互依存を伴うからです。(邦訳)


all of its’ relationships involve reciprocity.


あらゆる人間関係は、交換取引を伴うからです。

(コメント)

reciprocityの訳ですが、「相互依存」は確かに間違いではないのですが、コースのなかで reciprocity という言葉がでてくるときは、自分が与えたものに対して、代わりに何かを要求する、その交換取引性に焦点を当てています。この後に続く文脈でも、相互依存より、交換取引のほうが、文脈に馴染むと思います。


 P493 3行目


それが起きなかったとは言えないと言った女性がいらっしゃいましたが、その件を形而上学的にたどると、確かにそれは起きていなかったというところへ行き着きます。馬鹿馬鹿しいのは、それがあなたにとって実在になってしまうということです。過去はなくなり、それは決して起きていないのです。


The woman was saying that you can't say that it didn't happen. If you follow this metaphysically that is precisely what you come to, that it didn't happen. The very thing that seemed absurd is what you end up with as being reality. The past is gone and never happened.


虐待が起こってなかったなんて言えないはずよとその女性はおっしゃっていました。形而上学的にこのことを追跡していくと、必ず、起こっていなかったという結論にたどりついてしまうのです。荒唐無稽だと思えたまさにその結論が、事実であるとして行き着く所なのです。過去は過ぎ去り、決して起こっていなかったと。


(コメント)

馬鹿馬鹿しいのは~の一文は、ニュアンスが原文からずれています。



 P493 最後から5行目


欺かれた心の中では、原因や結果が実在するものとして信じられていて、それらが原因になると思い込まれています。していて、それらが本当に原因になり得ると信じられています。しかし、だからと言ってそれが真実にはなりません。まるで永遠の英知のように、原因や結果を意識から隠すことはできますが、それらの真の姿を隠すことはできません。(邦訳)


In the deceived mind the cause is believed to be real and the effects are believed to be real and causative in themselves. But that doesn't make them true; because the mind's belief in them doesn't make them true. It's like eternal Knowledge. It can be kept from awareness but that doesn't keep It from being what It Is.


欺かれた心の中では、原因は実在するものとして信じられます。結果も実在するものと信じられ、結果がそれじたいでまた別の原因になると信じられています。しかし、それで真実になるわけではありません。心がそれらを信じたからといって真実になるわけではないからです。永遠の智識のようなものです。智識を意識にのぼらせないようにはできても、智識が智識であることじたいを妨げるわけではないのです。(試訳)


(コメント)

邦訳には、訳のダブリと脱訳、It のとらえ違い(原因や結果を受けるなら、直前の文と同様、they)があります。永遠の智識~では始まるセンテンスと、その直前までのセンテンスとの論理的つながりがいまいちすっきりしませんが。偽りの原因と結果を信じ込んだところで、永遠の智識、つまり真理を覆い隠しはできても、真理でなくすることはできない、という話でしょうか。



 P498 7行目


イエスは、「身体は奇跡によって癒やされる」という形而上学的レベルへ落としこんでいます。


So he is dropping down a metaphorical level to, “thus is the body healed by miracles.”


イエスは、「身体は奇跡によって癒やされる」という比喩的なレベルへと落としこんでいます。

(コメント)

metaphorical をmetaphysical と見誤り。



 P498 後ろから4行目

・・・ものとしてとらえられます。ここ以下に(脱訳)あり。


The body is seen as causeless and not a real effect.
It is perceived to be outside the mind instead of containing the mind.(←脱訳部)


身体が心を格納しているのではなく、心の外側にあると知覚されます。

(コメント)

ワンセンテンスだけ抜けてました。


 P501 9行目

たとえば、瞑想だったり(邦訳)


This could seem to play out as taking medication or getting up and leaving.


例えば、薬を飲むことだったり(試訳)


(コメント)

medication が meditation ととらえ違い。確かに一文字しか違わない(笑)。
奇跡を恐れるあまり「瞑想」したら、そのまま奇跡が貫徹しそうに思って、文脈的に違和感感じて誤訳に気付きました(笑)。


 P507 終わりから6行目

今という瞬間しかないのにです。<脱訳 >。身体という観点で病気について・・・

(コメント)

<脱訳>部分に、W-pI.136.1. の引用が原文にはありました。



 P509 10行目

場面が周辺的なものだなんて、見たことないですよね。(邦訳)


it's kind of unseen when it's that peripheral.


そんなふうに周辺的になると、もう見えてないようなものですね。(試訳)



 P510 4行目

ですから、根本的な形而上学では判断を信じたくないのです。それは過ちを生むだけだからです。考える者の心の中でそれは世界を作り出します。(邦訳)


And that is the underlying metaphysics of why you don't want to buy into a judgment, because it makes the error real. It makes the world real in the mind of the thinker.

それが、どうして判断をしてしまいたくないかの、陰に隠れた形而上学的仕組みです。なぜならそうすることは過ちをリアルなものとしてしまう、考える者の心の中で世界をリアルなものにしてしまうからです。





evolievoli at 23:08│A 
 P368~ 9行目

それは常に、ある意見と、二元的な世界にある別の意見の間にあるように知覚していませんか。(邦訳)


Aren't these choices always perceived to be between options or alternatives within a dualistic world?


これらの選択は常に、二元的な世界にある複数の予備策、あるいは代替策の間に存在すると知覚されていませんか。(試訳)

(コメント)

within a dualistic world の修飾範囲、及び、options と alternatives の訳語に誤認があります。


 P372 4行目

ならば、形の中に選択肢を見ないなら、それはただ見て観察することと、喜びを味わう状態と、完全な離脱の状態の後に続いているものだと言えないでしょうか。(邦訳)


So if one sees that there is no choice in form, wouldn't it follow that there would be just a watching or an observing, a state of bliss, a state of complete detachment.


ならば、形の中に選択肢を見ないなら、ただ見て観察すること、喜びを味わう状態、完全にとらわれのない状態に至るのではないでしょうか。(試訳)

(コメント)

follow の誤訳のために、この文章の因果関係が全く逆になっています。It はthat節以下を指す仮主語です。


例1 )If you drink too much, dizziness will follow.   (飲み過ぎると、めまいを起こすよ。)        

例2 )It  follows from what she says that he is guilty.  (彼女の言うことから判断すると、彼は有罪ということになる。)


 P372 最後の行から

スピリットは万能です。わたしたちが話し合いで心のほうに焦点を向けるとき、つまりどちらかが中身の領域で、どちらが目的の領域かに目を向けるとき、わたしたちは有意義な内容へと向かっています。


Spirit is universal. For our discussion when we move our attention to the mind, which is the realm of content, or purpose, we move to a meaningful context.


スピリットは普遍です。わたしたちが話し合うにあたって、心のほう ― 内容あるいは目的の領域 ― に焦点を向ける時、わたしたちは有意義な環境に踏み入ります。

(コメント)

万能という訳はこの文脈に合致しません。この文でのwhichは疑問詞の「どちらかが」ではなく、関係詞です。


 P373 2行目

分裂した心は、選択には意味があると思っています。(改行)。その思いを、最後の選択または決断と、その他すべての決断に、終わりをもたらすための準備に使えばよいのです。その最後の決断こそ、中身や目的やスピリットを受け入れる決断です。(邦訳)


The split mind is a context in which the idea of choice is meaningful as a metaphor or a steppingstone, a preparation for the last decision or final acceptance that brings an end to all decision. This final decision is a decision/acceptance of the content, or purpose, of the Spirit.


すべての決断に終わりをもたらす終局的な決断、あるいは最終的受容のために、方便・手段・準備としてなら選択という概念が意味をもつ、分裂した心とはそのような環境です。この最後の決断こそ、スピリットの内容あるいは目的を受け入れる決断です。


(コメント)

邦訳の、最後の選択または決断、と、その他すべての決断が、並列的に訳されてしまっているせいで、この文章の趣旨の捉え損ないが危惧されます。幻想世界内部での無数の選択と、幻想世界から目覚める最後の選択とでは、次元の違う選択ですが、それでも目覚める選択も幻想世界にいまだ属している、という意味合いです。


 P382 12行目

「 脱訳 」。イメージの世界には、人生はありません。・・・


『So to me the phrase, “Die to self,” is just a metaphor for the deceived mind that believes that life is of the world of bodies.』There really is no life in the world of images.


ですから、わたしにとって、「真の自己に向かって死になさい」という言葉は、いのちが肉体の世界に属するものだと信じている欺かれた心に向けられた方便にすぎないのです。イメージの世界には、いのちはほんとうには存在していないのです。

(コメント)

単純な脱訳です。Die to Self は聖書からの引用のようですが、聖書ではSelf とSは大文字です。原書では小文字になっており、たぶん誤植ではないかと思います。


 P387 13行目 

以前参加したセミナーで気づいたことのひとつに、わたしは、自分の思いを使って強い自己認識をしていた、というのがありました。わたしは自分の思いが自分だと思っていました。思いがやって来ると、あらゆる方向に自分が引っ張られるように感じました。ですから、自分は自分の思いではないととらえるための機会だったのです。
しかし、あなたが紹介された考えは、わたしは考える者でもあるということなので、後退している感じがします。つまり、ただ座って、自分がどれほど考える者だと思うことに執着しているかに気づくのですね。まさに、擬人法の一部ですね。(邦訳)



Friend 1: One of the things I became aware of in the seminars I took was that I had a strong
identification with my thoughts. I thought my thoughts were me. Of course, thoughts came up and
I felt like I was being  pulled in every direction. So I had the opportunity to see that I am not my thoughts.
But a thought that you introduced is that I also think I am the thinker. So this is another step back
from that. So I have just been  sitting with that and noticing how attached I am to thinking that
 I am the thinker. This is part of the personification.



以前参加したセミナーで気づいたことのひとつに、わたしは強く自分の思考に同一化している、というのがありました。わたしは自分の思考が自分だと思っていました。思考がやって来ると、あらゆる方向に自分が引っ張られるように感じました。ですから、自分は自分の思考ではないととらえるための機会だったのです。
しかし、あなたが導入してくれたのは、わたしはまた、自分が自分で考えていると思っている、という視点でした。これはもう一段、包括的な視点になりますね。このことを熟考していると、自分が自分で考えている、という思考に、わたしがどれほどとらわれているかということに気が付きました。これは、個としての自己が形成されてくるプロセスの一部ですね。(試訳)


(コメント)

いくつかの誤読、誤訳がありますが、このパラグラフで重要なのは、思考に同一化していることの気づき、そこから、自分が自分で考えている、という思考に同一化していた、という気づきへと、気づきが深まっていった、という要旨が捉えられているかどうかです。ちなみに、step back from は、一歩後ろに下がることで、より広い視野、包括的な視野で見る、ということなので、「後退」ではなく、「前進」です。


この節はノンデュアリティのサットサンの問答とそっくりでしたね。



 P388~ 7行目

命は考えることですから、考えること自体が、有害なのではありません。しかし、二種類の考えがあることを理解するのは、大切なステップです。(邦訳)


But Life is Thought, so it's not the thinking itself that is harmful. But it is an important steppingstone to grasp that there are two kinds of thinking.



しかし、いのちは、神の思考でもありますから、考えること自体が、有害なのではありません。しかし、二種類の考えがあることを理解するのは、大切なステップです。(試訳)


(コメント)

Thought と頭文字が大文字なので、これは神の思考、神の想いです。邦訳だと若干舌足らずです。


 P395 終わりから3行目

わたしが役目のない過去を見直すときに見ているものは何なのでしょうか。わたしが神からの分離を信じたときに、役目のない過去が生じました。つまり、機能しないものが生じたのですよね。


I want to question what I am looking at when I'm looking at my dysfunctional past. The dysfunction  occurred when I believed I separated from God. Isn't that the dysfunction that occurred?


自分の機能不全の過去を見ているときにわたしが見ているものについて質問したいのですが。機能不全は神からの分離を信じたときに生じた。神からの分離こそが機能不全そのものではないですか?


(コメント)

コースでfunction とは重要な概念であり、機能、役目と訳されます。しかし、ここでdysfunction とは、インナーチャイルドワークで出てくる機能不全家族という概念から来たものでしょう。なので、「役目のない」という訳は不適切で、そのまま機能不全と訳すのが妥当です。



 P396 5行目

友人2)機能していない過去は、歴史的な意味でも、不適切だとおっしゃるのですね。
友人1)先ほどデイヴィッドは、わたしたちが選んだことは全部、すべてをもたらすか、何ももたらさないかのどちらかだと指摘されました。もし、分離を選んでいて、それを取り除くことを選ぶなら、自らを、過去と未来を抱えた分離した人だと思っているということですね。(邦訳)


Friend 2: You're saying the dysfunctional past is irrelevant in historical terms.
Friend 1: David pointed out earlier that every choice you make brings you everything or nothing. If you choose separation, if you choose to keep reliving that, then you think you are a separate person with a past and a future.


友人2)機能していない過去は、歴史的な意味でも、無関係だとおっしゃるのですね。
友人1)先ほどデイヴィッドは、わたしたちが選んだことは全部、すべてをもたらすか、何ももたらさないかのどちらかだと指摘されました。もし、分離を選んでいて、それを固定し続けることを選ぶなら、自らを、過去と未来を抱えた分離した人だと思っているということですね。(試訳)

(コメント)

irrelevant の訳は、ここでは「無関係」が適切でしょう。

今、分離を選び続けていることが機能不全なのであって、過去に何があったかどうかは無関係で、訂正も今なされるものだ、という趣旨です。あんなことがあったから今こうなんだ、という後悔や過去の境遇を恨む思考は、今、分離を訂正することによって消失し、過去に何があったかは無関係になる、ということです。

reliving と原文にはあり、この訳としては邦訳の「取り除く」もあり得ますが、しかし、文脈からすると、これは分離が固定される方向の話をしているので、おそらく原文じたいが riveting をreliving に誤植してしまったのでしょう。


 P397 最後から2行目

エゴは「やめて!あなたはそんなことはしたくないはず、そんなことをしても、何も残らない!アイデンティティなんてないんだから!」


the ego shouts “Stop! You don't want to do this. You'll be left with nothing! No identity!”


エゴは「やめて!あなたはそんなことはしたくないはず、そんなことをしても、何も残らない!自分が自分でなくなっちゃうよ!」


(コメント)

エゴは、(分離した個の)アイデンティティはあるぞ!!と主張する部分です。だから自分から「アイデンティティなんてないんだから!」とは言いません。お前は自分のアイデンティティを失うことになるんだぞ!それでもいいのか!とエゴが脅迫しているわけですが、神に創られたままのわたしたちの真のアイデンティティは、失われることも脅かされることも改変されることもないので、このエゴの脅迫に屈する必要もないのです。


evolievoli at 10:33│A 
 P341 最後から4行目

やはり、身体の死と別れが知覚され、その人間関係は、理想の長さに切り上げられることになります。(邦訳)


it is still perceived that death of the body or splitting up and moving on cuts the relationship short of the ideal.


死別、あるいは普通の離別によって、人間関係は理想には及ばないものになってしまうということが、やはり知覚されます。


(コメント)

文脈からすると、どんな理想的な関係もやがて死がわかつ、ということなので、理想の長さに切り上げられるというより、理想には及ばない、というネガティブな意味合いでしょう。


 P347 4行目

心を見つめることと膨大な思いを手放したいと思うことで、唯一注意しなくてはならないことは、それが意識にある神聖な光に蓋をしてしまうということです。(邦訳)


The only reason to be so attentive and alert in mind watching and to want to release erroneous thoughts is that they cover over the Divine Light in awareness.


細心の注意を払って心を見つめ、過った思いを手放したいと思う唯一の理由は、その過った思いが意識にある神聖な光に蓋をしてしまうからです。


(コメント)
erroneous をenormous と誤認。to want to ~はreason にかかります。神聖な光に蓋をするのはthey = erroneous thoughts です。



 P347 7行目


心を高次の力に合わせているとき、人間関係において、神とつながっている確かな感覚がありますか。わたしは、神の目的と人間関係を同一視できません。それに、高次の力や人間関係が本当に何を意味するのか、わかっていません。(邦訳)


As the mind is riveted on a Higher Purpose is there a certainty of Union with God in relationship? I haven't equated Purpose with relationship and I think I don't know what Higher Purpose and relationship really mean.

(コメント)

「高次の目的」が、「高次の力」へと誤訳されています。


 P347 終わりから3行目


真の自己と神を否定しているからです。でも、あなたは、真の自己と神だけを理解できる存在なのです。(邦訳)


for it has denied its Self and God, and its Self and God can only be known. 


真の自己と神を否定しているからです。否定がなければ、真の自己と神はただ知り得るものになります。(試訳)


(コメント)

試訳では、「否定がなければ」と追加しました。直後の文章に「障害物や壁を取り除くことが、わたしたちの課題です」とあるので、それらの障害や壁≒真の自己と神の否定、がなければ、明晰さは瞬間的に気づかれる≒真の自己と神はただ知られる、と推測できるからです。


 P352 5行目


でも、欺かれた心は、それ自体が些細なものです。なぜなら、それは実在しておらず、現在に存在する本当のあなたではないからです。(邦訳)


Yet the deceived mind is itself trivial stuff, for it is not real and it is not Who You are, the I Am Presence.


でも、欺かれた心は、それ自体が些細なものです。なぜなら、それは実在しておらず、真実のあなたではない、現在性そのものとしての私、ではないからです。(試訳)


(コメント)

邦訳に誤りがあるわけではありません。ただ、I AM PRESENCE が「現在に存在する」と訳され、軽い形容詞扱いされていますが、the I AM PRESENCE こそ、この章の核心を表す言葉だと、思うのです。ただ、その核心性に見合った適切な訳を思いつかないのですが、その背景を下記に詳述します。


PRESENCE とは、存在すること、ですが、形容詞のpresent が「現在」という意味をもつことからわかるように、PRESENCE は現在性も含みます。ならば「現在に存在する」という邦訳で問題ないじゃないか、となるのですが、重要なのはそれが、I AM とつながっているということです。つまり、


I AM PRESENCE = 私は、存在そのものであり、かつ現在そのもの、「今」そのものである。

ということなのです。私は、存在する、ということ。私は現在である。私は「今」である。更に言い換えれば、存在イコール私である、現在イコール私である、「今」イコール私である。


・・・伝わっているでしょうか。ここでいう「私」とは、分離した具体的個人としての私ではなく、抽象的なものになっています。一体性、永遠性、不滅性、遍満性としての私、抽象性としての私です。具体的な断片(健康な肉体や病気の肉体、想念やセルフイメージ、個々人の性格や思考・感情傾向、地位や資格や所有物、美醜など)に同化している私は、対象化することのできる、欺かれた心です。しかし、抽象性としての私は、対象化することができません。対象化できないのに、「私」として自覚できる。最大の錯誤は、この対象化できないがゆえに、空間の一部に限定され得ないはずの「私」が、肉体に内蔵され、肉体内部に限定して存在している、という知覚です。この知覚こそ最大の錯覚です。これが非二元性の洞察です。


コースの純粋非二元性はこの先、延長・共有・親交を確かにしつつ、宇宙の消失、神への回帰へと続きますが、このゴールとしての覚醒は、最初からいまここにあったものです。実在したことのなかった夢が必要とされなくなるまで、この覚醒は見かけ上、明晰さを高めていきますが、それは夢見る者、夢を夢として自覚しつつ生きる者のプロセスであり、分離した個人として生きた人生とは異質なものです。そういう意味で覚醒はゴールでありながら、新しいスタートでもあります。


このP352 7行目から始まって、デヴィッドさんはこれ以降章の終わりまでどんどんたたみかけていきます。「友人」はデヴィッドさんの話についていくのに必死ですが、まさにここでは「救済の即時性」が語られているエキサイティングな章なのです。


 P355 5行目

膨大な信念はスピリットでもなければ、(邦訳)


An erroneous belief is not Spirit,


誤っている信念はスピリットでもなければ、(試訳)


(コメント)

erroneous をenormous と誤認。


 P356 9行目


本当の" わたし "だけが実在の思いを考えることができ、その他の者は皆、見せ掛け人の出身ですね。どちらの" わたし "が本当のわたしなのかは、今正しく思えているかどうかでわかります。それがあなたのおっしゃっていることですか。(邦訳)


Only the real “I” can think real thoughts, and everything else was from a make-believe I. And I can tell which I is the real I by how I feel right Now. Is that what you're saying?


本当の” わたし ”だけが実在の思いを考えることができ、その他のものはすべて、見せかけの” わたし "
から来ています。そして、どちらの” わたし ”が本当の” わたし "かは、まさにこの瞬間、どう感じているかで判別できる、そういうことでよろしいですか?(試訳)


(コメント)

make-believe I は、見せ掛け「人」ではなく、見せかけの" わたし ” です。「わたし」を軸に対比している文章なので、ここは「わたし」と訳すべきところです。次のセンテンスは、本当のわたしと、エゴ・誤った自己概念としてのわたし、そのふたつの判別法について述べています。判別に際して、今この瞬間どう「感じているか」、今現在のフィーリングが目印であると言っています。


奇跡講座テキスト T-4.IV.8.6 において、 この判別法としてのフィーリング(翻訳では「気持ち」と訳されている)に言及があります。フィーリングを毎瞬、察知し、自覚することは、自分がエゴにとらわれてしまっているかどうかの、最もわかりやすい指標なので、コースの実践において最重要項目と言ってもいいと思います。


 P361 12行目

真の自己を見失った自己、というところへ戻りました。本当に存在を見失い始めると、小さな自分も消えていきます。(邦訳)


 So it comes back to self being lost in Self, I being lost in Being. Indeed, that's the way it goes, that's the way the little self disappears.


これで、真の自己のなかで消え行く個としての自己、存在そのもののなかへと消え行く個としての「私」の話へと戻ってきます。まさにこれが個の宿命、個我の消滅する成り行きなのです。(試訳)

(コメント)

邦訳はここでの lost の意味を取り違えています。試訳は、若干、意訳を施しています。


evolievoli at 01:08│A 

2015年04月13日

  P305  6行目

今でも数々のゴスペルや聖書を比べている学者がいます。(邦訳)


Even now scholars compare various gospels and scriptures. 


今でも数々の福音書や聖典を比較している学者がいます。(試訳)


(コメント)

gospel は聖書のなかの福音書のことを指します。日本語のカタカナで「ゴスペル」というと、教会でノリノリで歌う、あのゴスペル音楽のことを想起してしまいがちではないでしょうか。また、scriptures も頭文字が大文字のSだと聖書になるようですが、ここでは福音書と並列で並べられているので、聖書のなかの数々の聖典、教典のことを指していると捉えたほうがいいでしょう。


 P307 8行目

どれも、未来の悟りを目指しています。怪しいですね。実に怪しい。


They are all aimed at future Enlightenment. Sneaky, sneaky, sneaky. 


どれも、未来の悟りを目指しています。気づかないうちに、こっそり、こっそり、忍び込んできますね。


(コメント)

ここでは、なんらかの修行を通じて、「未来」において悟りを得るんだと無意識に期待してしまう、その考え方が、全く気づかないうちに「こっそり、こっそり」忍び込んでくることを、sneaky と指して、ユーモアを混じえて話しています。ただこの文脈で「怪しい、実に怪しい」って言ってしまうと、全国の修行者の皆さんへの偏見を助長し、修行者さんが気を悪くされかねないので(笑)、ちょっと言葉を選び変えてみました。


 P309 1行目

コースは、導師からの直伝です。



This is straight from the Master. 


コースは、主イエスからの直伝です。


(コメント)

コースを媒介したのはヘレンさんですが、それを伝えてくださったのは我らがイエス様です。イエス様は、「主イエス」と敬意を評して呼ばれます。The Master は、Lord と並んで、「主」と訳されます。「導師」という言葉でも意味は通りますが、この言葉はどちらかというと仏教を連想させる言葉のようです。


evolievoli at 19:20│A 
 P284 8行目


 

ここは誤訳ではなく、情報紹介です。

ここで紹介されている「近眼のマグー」とは上の動画にあるアニメーションですが、マグー氏本人は極度の近眼で、その行く先々で周囲がてんやわんやになっていても、本人は近眼で見えていないので、本人だけは全部、結果オーライになってしまうというコミカルなお話です。上記の30秒ほどのオープニングで、そのキャラクターは見るだけでわかると思います。


聖霊に導かれる道というのは、自分で把握して、計画してと、自分がわかっていなければならない、コントロールしてなければならない、という人間の通常のあり方から、聖霊を信頼してその導きに従う、という生き方になるので、まるでこのマグー氏のように、周囲がどんな状況であっても、それを自分では把握してないけれど、本人は一貫して幸せ、というところが似ているとして、よくデヴィッドさんが引用するアニメなのです。マグー氏は周囲を翻弄して、てんやわんやにさせるところがあって、ミラクルワーカーもそうだというわけではないと思いますが(笑)、周囲に全く影響されずに、しあわせに導かれていく、というあたりをデヴィッドさんは指摘しているのだと思います。


 P289 14行目

癒やされた心は、その心が計画しているに違いない信念に対し、安心していられます。(邦訳)


A healed mind is relieved of the belief that it must plan


癒やされた心は、自分で計画しなければならないという思い込みから解放されています。(試訳)


(コメント)

義務のmust 、同格のthat、で適訳に至ります。


ここは、レッスン135の A healed mind does not plan.  It carries out the plans that it receives through listening to wisdom that is not its own.(W-pI.135.11. )を、言い換えたセンテンスです。135課は、コースが実際にどう生きられるのかをダイレクトに表現した課であり、非常に過激な内容です。わたしも思い入れのある課ですが、普通で考える以上のコミットメントが要求されているのだと思い知らされる課ですね



 P291 最後の行

本当に愛情にあふれた女性で、わたしも彼女の前では決して間違ったことはできませんでした。(邦訳)


She was such a loving woman that I could never do anything wrong in her eyes.


本当に愛情に溢れた女性だったので、彼女の目からすれば、わたしが何か間違ったことをしたなんてふうに見えることはなかったでしょう。(試訳)


(コメント)

邦訳だと、意味としては、おばあ様がすばらしい人すぎて、デヴィッドさんはおばあ様の目の前では一切間違いを犯せないような緊張感が走っている情景が目に浮かんでしまいかねない訳です。ここでのcould は仮定法的に訳せば適訳に至るでしょう。


 P295 1行目

30年間の牧師の公務(邦訳)


Thirty years of public ministry


3年間の公の宣教活動


(コメント)

原文でも30年間となっており、これは原書の誤植でしょう。イエス様が宣教活動をされたのは3年間にすぎないのは聖書を見れば明らかです。

public ministry を「牧師の公務」と訳したのは、歴史的に見て誤りです。「牧師」という言葉は、プロテスタントに特有の言葉です。プロテスタントは、16世紀、ルターの宗教改革以降のお話です。


 同P295 4行目

イエスが、ジョンと一緒にヨルダン川にいたときに、ジョンに洗礼を施すように言ったところ、ジョンはイエスに言いました。(邦訳)


When Jesus was at the river Jordon, with John, he walked out and told John to baptize him and John said,


イエスが、洗礼者ヨハネと一緒にヨルダン川にいたとき、ヨハネに洗礼を施すように言ったところ、ヨハネはイエスに言いました。


(コメント)

これは聖書の有名な1シーンですが、登場するのは洗礼者ヨハネ、あるいはバプテスマのヨハネです。確かに英語で聖書を読むとヨハネはJohnです。しかし、日本語の聖書でジョンではほぼ通じないでしょう。聖書に馴染み、聖書の言葉を尊んでいる、クリスチャンを経たコース学習者だと、複雑な心境になるようです。


 P295~ 終わりから3行目

聖堂は崩壊し、三日で再建されます。(邦訳)


When the temple is torn down it will be rebuilt in three days.


神殿(あるいは宮)は崩壊し、三日で再建されます。(試訳)


(コメント)

聖書のこのシーンでは、「聖堂」という言葉は使われないようです。イスラエルの「神殿」が舞台だからです。このページは全体的に聖書からの引用が多いですが、その分、訳語の調査不足が目立ってしまったようです。









evolievoli at 18:10│A 
 P263 13行目

わたしの愛をあなたの愛として受け入れること、それが、真実をありのままに受け入れるということです。(邦訳)


To accept My Love as Your Love is to accept the Truth as it is.


(コメント)

邦訳じたいに特に問題があるわけではありません。ただ、原文において、わたしの愛とあなたの愛が、どちらも大文字で表現されていることには、注意を喚起しておく必要を感じました。「わたしの愛をあなたの愛として受け入れること」、わかったような、わからないような表現です。どういう意味がわからせてもらえるように、聖霊に祈りたいと思います。

evolievoli at 17:14│A 
 P251 7行目

心の自然な状態は、抽象的な放心状態です。(邦訳)


Abstraction is the natural condition of the Mind


抽象性が、神の心の自然な状態です。(試訳)


(コメント)

まず原文で着目しなければならないのが、心が大文字のthe Mindで表現されている点です。コースでは神の心を指しています。

邦訳に目を向けると、主語と述語が逆転している点と、「放心状態」という原文に存在しない訳が付け加えられている点に気が付きます。主述の逆転は脇におけるとしても、この「放心状態」というのは、おそらく翻訳者が抽象性としての神の心を想像して解釈したか、あるいは自らの特定の体験を念頭において、付け加えたのかもしれません。しかし、想像や一時的な体験もまたエゴの一部です。抽象性とはまさに、想像の対象になり得ない、具体的で一時的な体験としては把握できないが、しかし、いまここに常に存在しているという点で、まさに抽象としかいいようがないものです。直後の段落でも神の愛について説明が続きますが、抽象性を説明するために具象性を動員せざるを得ないジレンマがどうしてもついてまわります。このジレンマは非二元性、あるいは覚醒の理解と描写に常についてまわる難しさです。


なお、この一文は、ワークブックのレッスン161、第2段落の「完全な抽象性が、心の自然な状態である」から始まる文章から採られているものと思われます。このレッスン161は抽象性と具体性との関係について説明がなされているのでご参照ください。

evolievoli at 16:53│A